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 205号室恋模様


 珍しいものを見た、と思った。

 海堂にとって、その日は不本意の連続であった。起床後、日課のランニングを終えて帰ってくれば、朝稽古をしている日吉と真田が猫と戯れていた、という噂を耳にした。やたらと人懐っこい猫で、小動物の相手が得意ではない真田相手にも喉を鳴らしていたと聞けばなおの事落ち込んだ。猫が好きなのに猫からは苦手意識を持たれるのは海堂の悩み上位に堂々ランクインしている。
 朝食前に着替える際は、切原が起きてこなかった。これ自体はいつものことであるので、実は面倒見のいい日吉と、手のかかる相手には何気に慣れている財前、そして海堂のうち手の空いた者が結果的に起こす役目を担っている。しかし今朝は、起こしても起こしても布団にしがみつく切原にうっかり誰かが禁止ワードを呟いて、飛び起きてキレた切原と取っ組み合いになり、騒ぎを聞きつけた柳と連れ立っていた乾に雷を落とされる羽目になった。その後赤也が手間をかける、と謝罪されたものの、切原が放っておけずに手を出すことを決めたのは自分たちなのだし、朝の忙しい時間帯にもめ事を起こしたのも自分たちであったので、先輩方の手を煩わせたことに深く海堂は反省した。そして朝食では、落ち込む海堂と黙り込む日吉、通常運転でローテンションな財前の中、一人切原がハイテンションだったのも、八つ当たりと分かっていながら苛立ちを隠せなかった。
 練習の時には、落ち込みを引きずっていたのか今一体のキレもよくなかった。海堂の持ち味はスタミナとメンタルからくる底知れない粘りである。それが半減しているのだから、いい結果が出ようはずもない。周囲に叱咤されるより心配されるより、何より自分自身の不甲斐なさが堪えた。
 更に合同練習が終わり、ライフワークの自主トレに行こうとした途端、乾に呼び止められて今日の自主トレは控えるよう申し渡された。乾の観察眼は海堂が深く信頼するものであり、その乾がこれ以上は逆に体に悪いときっぱりストップをかけた以上、従う以外の選択肢はなかった。だがそれにしても、高みを目指すためのステップで躓いてしまったような心境はどうしようもなく、更に海堂は落ち込んだ。
 もう今日はこういう日なのだと諦めて、寝てしまおう。
 そう結論付けて、早々にベッドに転がった海堂は、普段ではありえないほど早い時間にも関わらず、いつしか眠りに落ちていた。

 ふと目を覚ました時、時計はまだ九時半を指していた。
 数十分眠っただけだが、体は確かに軽くなっている。朝から積み重なる精神疲労の所為かとも思っていたが、確かに肉体的な疲れがたまっていたらしい。乾の目は流石だ、とこの場にいない先輩を海堂は称賛した。疲労が軽減したおかげか、ずっと続いていた苛立ちも鳴りを潜めている。驚くほど爽快な気分だった。
 そういえば切原の姿がない。ここ最近持ち込んだ携帯ゲーム機で財前と協力プレイをしてみたり対戦してみたり騒がしくしていたものだが、成程よく眠れたのは騒ぐ人間がいなかった為でもあるらしい。切原の底抜けに明るい人間性と懐っこさは好ましいが、基本物静かな空間を好む海堂にとって、精神的に落ち込んでいるときには眩しすぎる太陽のようなものなのかもしれない。
 日吉は基本的に静かに読書をしている類の人間だし、財前も騒ぐ相手がいなければ淡々とスマホをいじっている。今日も日吉はホラーだのUFOだの、海堂が絶対に近寄りたくない類の本を読んでいるのだろうか。ふと部屋を見回して、海堂は目を見開いた。
 日吉は眼鏡をかけたまま、向かいのベッドの支柱にもたれかかって寝ていた。手からは本が滑り落ちている。開かれたページの、挿絵がなんだかおどろおどろしい絵柄だったことから海堂は素早く意識を逸らした。
 珍しい光景だ、と素直に思う。夜決まった時間に就寝し、朝早く稽古に出てゆく日吉は、きっちりした生活リズムに添って生きているタイプの人間である。趣味はともかくとして、同室の面々の中で最も親近感を覚える相手でもあった。それ故にストイックなまでに自己を律しているし、転寝をしている姿など見たことがなかった。朝はともかく、夜は海堂ほど自己鍛錬に耽る訳ではないのだが、武術をやるという割にスタミナがないようなので、こちらも疲れが溜まっていたのかもしれない。しかし長時間寝るには向かない体勢なので、起こしてベッドに上がるよう促したほうがいいだろうか。
 体を起こしかけて、そのまま布団に逆戻りする。
 スマホでもいじっているのだろうと思っていた財前が、椅子に逆向きに座っていた。
 普段からだるそうにしていて、やる気が有るところなど見たことがない。真剣な顔も数えるほどだ。その財前が、スマホを片手でぶらんと下げたまま、椅子の背もたれに顎を乗せて、日吉を見ていた。
 黒曜石の瞳が、日吉の全てを写し取ろうとするかのように。瞬きも惜しむように、ひたすらに、見ていた。
 海堂はその眼に見覚えがあった。正確には財前ではない。青学テニス部レギュラーは、氷帝ほどではないがファンの女子も多い。特に三年の先輩たちは女子に騒がれるのもしょっちゅうだ。そんな中、教室の窓から。あるいはコートを囲うネットの隅の方で。そっと、声をあげずに見つめている女子が時折いた。ミーハー感覚で応援しているのとは違う、ああ本気なのだ、と。その人のことを何も知らない癖に、真剣な想いだけが伝わってくる、そんな、眼だ。
 財前が日吉に注ぐ視線は、温度も何もないようでいて、痛みさえ覚える強さだった。向けられている日吉が、よく寝ていられるなと思うほどに。
 今まで同室で過ごしてきたが、普段の財前が日吉に向ける目は、知り合いから友人へ、気の置けない間柄へ変わっていく、何の変哲もないものだった。自分たちと同じプロセスを辿っている、温度が低いようでいて、その実きちんと友人と認識していてくれていることが分かる。その程度だったように思う。
 こんな目を、していたのか。したかったのか。隠して、押し込めて、誰も見ていない場所でだけ、物理的な圧力さえ伴うほどの熱意を滾らせて。
 いつしか海堂は息を殺していた。財前の邪魔をしてはいけないと、直感的に思った。日吉に集中している財前は、海堂が起きたことに気付いてはいないだろう。あれほどに情熱的で、そして、押さえつけられた熱意の行き場のない切なさが滲む眼差しを、邪魔することは出来ない。
 男同士だとか、友人だと思っていた者同士だとか、そんなことは問題にならないと思った。
 あまりにも真摯で、ひたむきで、そして可能性も期待も初めから排除した、見つめることしか出来ないという、想いは。
 報われればいいのにという祈りを海堂が抱くほどに、切なかった。

(18.06.16)


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